75歳まで元気に働くための『40歳定年制』Vol.2

東京大学大学院経済学研究科・経済学部 柳川範之氏インタビュー

――IT産業を核とする急激な産業構造変化が引き起こしている、労働者の“スキルの陳腐化”は、労働者だけの問題なのでしょうか。

柳川 いいえ。もちろん、企業、日本社会の生産性や成長においても大きな問題です。ひとつ例を挙げてみましょう。極端な例ですが、非常に能力の高いタイピストがいても、みなさん承知の通り、ワープロ、パソコンが普及して誰でも自分で打てるようになり、あっという間に仕事のスキルとして役に立たなくなってしまいました。これが、スキルが陳腐化するということです。どんなに生産性が高いタイピストでも、いまはそもそもその仕事がないので、どこにも雇ってもらえません。タイピストにとってもですが、会社にとっても大きな問題です。生産性の低い人材に賃金を払っているのですから。タイピストを雇い続けると、若者が就職できないというしわ寄せもあります。欧州の先進国ではそれが若者の失業の原因のひとつになっています。日本では、加えて少子高齢化、生産年齢人口の減少という悩ましい問題もあります。

――問題は複合的なのですね。

柳川 そうです。このままでいくと、日本の社会保証制度も危機を迎えます。非常に高い成長率と、女性・高齢者の労働への参加率がものすごく上がらないと、もうまともに機能していかないことは明確になっています。そういう中で、企業の利益構造からして、スキルが通用しない高齢者、中高年を雇い、そこそこの給料を払い続けることは到底無理です。さらには、前回で言ったように、新興国の成長という脅威もあります。彼らの能力の高まりは非常に速く、所得もすごい勢いで伸びています。そうなると教育水準が上がり、それがまたスキルアップをスピーディなものにしています。しかも、彼らの労働賃金は安い。直接日本に働き手として入ってこなくても、実は日本の労働者は、給料が3分の1の人たちと、間接的に競争をしているわけです。これが現実です。

――日本ではさまざまな成長戦略が打ち出されていますが。

柳川 どういう成長戦略が打ち出されているかというと、少子化対策もそのひとつですが、これはすぐには間に合いません。移民による労働人口の増も挙げられていますね。女性、高齢者の労働参加も奨励されています。しかし、当面出ているのは短期的な人手不足の解消手段としては有効かもしれませんが、抜本的かつ構造的な対処について議論、具体的な施策もされていません。となると、現実的には、いまの人材をいかして、生産性を上げていくしかありません。生産年齢人口は減っていますが、いまいる生産年齢人口をフル活用しているかというとできていません。生産年齢人口は65歳までと統計上でみなされていて、それを越えると生産する側から支えられる側になります。しかし、いまは70代でも元気でやる気もある人が沢山います。その方たちが支えられる側から支える側になれば、景気上昇、経済成長に大きくプラスになります。生産性を上げるということは、とても大事なことです。そのためには、いま働いている人、働ける高齢者や女性が、それぞれスキルを持ち、適切な場所で働けるようにしていくことです。

――65歳に定年を伸ばすだけでは、問題の解決にはならないのですね。

柳川 その通りです。産業構造変化により、必要なスキルはどんどん変わっていっています。50年間働くとして、その間にも必要な能力も、自分を活かすのに適切な場所もどんどん変わる。労働者がそれに対応して力を発揮して働けるようにしないと、生産性は上がりません。つまり、新しい技能や知識を習得することが必要なのです。スキルの陳腐化が起きたら、必要な技能、知識を得る勉強をするしかありません。技能・知識の再習得が、これからは不可欠なのです。それをもっと柔軟に、かつ大胆に行っていかないと、日本企業は今後生き残れません。

――個人だけではなく、企業も生き残れないと。

柳川 20年後はこのまま存続できる自信はないと多くの方が答えているように、日本の経営者の多くは、いまの産業構造の変化を知っていますし、感じとっています。しかし、だからといって従業員を解雇して新しい人を採用するということはなかなかできないのが日本の経営者です。代替えとして、M&Aによって必要な人材をすぐに獲得することなどが考えられていますが、日本の大手企業は、スキルが陳腐化してしまっているいわゆる“社内失業者”をすぐには解雇せずに雇い続けている場合が多いんです。そういう状況だと、グローバルな国際競争に勝てません。雇用負担だけが多くなってしまい、最後には苦しくなって、リストラをしてしまうことになります。スキルが陳腐化したまま職を失う人も、当然困ります。

ですから、変化に対応した能力開発を、いくつになってもやらなくてはならないのです。「40歳定年制」というタイトルの本で最も強く提言したいところはそこのところです。40歳くらいで、少なくとも1度、できれば2度、3度、スキルの再習得を真剣にやらないと、長く豊かに働き続けることはできない。そして、企業も、社会も成長することができず、変化に取り残されるということです。それでは、75歳まで働く、75歳まで働ける社会にするには、どうしたら良いのでしょうか。それには、労働者と雇用側、個人と企業両方の意識変革と行動が必要です。

第3回に続く


柳川範之
東京大学大学院経済学研究科教授
1963年生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。東京大学大学院経済学研究科博士課程修了。経済学博士。現在、東京大学大学院経済学研究科教授。
著書に『独学という道もある』(ちくまプリマー新書)、『法と企業行動の経済分析』(第50回日経・経済図書文化賞受賞、日本経済新聞出版社)、『元気と勇気が湧いてくる経済の考え方』(日本経済新聞出版社)、『日本成長戦略 40歳定年制』(さくら舎)などがある。