75歳まで元気に働くための『40歳定年制』Vol.1

東京大学大学院経済学研究科・経済学部 柳川範之氏インタビュー

――60歳から65歳に定年が引き上げられているいま、『40歳定年制』という言葉はショッキングですが、この提言が真に意味するところをうかがっていきたいと思います。

柳川 どうも本のタイトルばかりが一人歩きをしてしまって、いろいろ誤解をされているようです(笑)。ただでさえジョブセキュリティが低くなっているのに、社会不安をあおる気か、と。しかしそれは大きな間違いです。私は決して、40歳で会社をやめなさい、仕事をやめなさいと言っているのではありません。むしろ逆です。75歳まで、やりがいを持って、自分のスキルを社会にいかして働くための考え方、ひいては日本経済・社会の活性化への提言を、この言葉に集約したのです。本の表紙には、最初は「75歳まで元気に働くための」という枕言葉がついていたのですが、外されてしまったんです(笑)。

――そもそも、どういう問題意識から提起されているのでしょうか。

柳川 これは、単純に働き方や雇用の仕方の話ではありません。もっと大きな視点からの問題です。いま、日本、そして世界の産業構造は、大きく変化をしています。しかもそのスピードが非常に速い。それに対して、日本の企業、労働者は、どう対応していけばいいのか、ということが根底にある問題意識です。産業構造の変化をもたらしている原因は、言うまでもなくIT産業です。その変化は、IT産業界だけではなく、オーソドックな製造業を含め、さまざまな産業に及んでいます。

――企業や労働者に、どういうことが起きているのですか。

柳川 急激な変化にともない、労働者に必要とされる技能や知識もどんどん変わってきています。最新だった技術やスキルが、あっという間に役に立たなくなってしまう“スキルの陳腐化”が起きていて、それが最大の問題です。その一方で、グローバル化という視点から世界を見渡してみると、10年前、20年前と大きく違って、中国やインド、東南アジアなど新興国といわれる国の産業が目ざましく発展しています。そこで働く人たちのスキルも高速で高度化している。日本の企業や日本の労働者は、間接的にこの新興国の労働者と競争しなくてはいけないのです。あとから述べますが、彼らのスキルが高度化していることは、今後の日本の産業にかなり大きな影響を及ぼしていくでしょう。

――変化を実感している方は多いのですか。

柳川 「20年後にいまと同じように会社が存続していると自信を持って言えますか」と企業の経営者の方にお聞きすると、「目標としては持っているけど、自信を持ってイエスとは言えない」という方がほとんどです。最初、その質問は50年先についてだったのですが、それだとイエスと答える方は皆無だったので、30年、20年と変えてきたんです。これを個人に落としこんで、「いまの自分のスキルが20年後に通用すると思うか」と聞くと、労働者側はあまりシビアには認識していなくて、「通用してほしいな」と思っている方がほとんどです。

――認識に少しズレがあるのですか。

柳川 そうです。さらに大きいのは、労働市場でのミスマッチです。就職活動している学生の多くは、定年までずっと安心して働ける就職先をさがしています。ところが20年先でさえ、会社が同じように存続すると思っている経営者は少ない。もちろん、社員が安心して働ける会社にしようと企業側もいろいろなセットアップをしているし、若者もある程度のリスクはあるとは思っています。ただ、就職面談と経営者の話を聞いたとき、非常に大きなギャップがあると感じました。これは、今の日本の労働市場全体の大きな歪みです。世の中は急速に変わりつつあるけど、就職活動をしている人たちには伝わっていません。

――これまでにも産業構造の変化は起きてきています。それにどう対処してきたのでしょうか。

柳川 産業構造の変化に対してどう調整するかを“産業構造調整”といいます。世界から見ると、日本はそのスピードが伝統的に遅い。どう調整してきたかというと、人材の代謝、入れ代わりで対処してきたんです。衰退する部門があるとしたら、人員を解雇したり無理やり移動させたりせず、伸びている部門には新卒の人材を配属し、衰退する部門では定年により人員か減っても増員しない。そういうようにしてゆっくりと、社内の代謝サイクルを利用して少しずつ変化に対応するというやり方をとってきました。これは、労働者にとっても、企業にとっても悪いやり方ではありません。変化への対応が遅いということには、うまくいけばダメージをやり過ごすことができ、ショックに強いという側面もあります。変化が一時的なものであれば、早々と調整して右往左往するより、待っていたほうがいいでしょう。しかし、いま起きている産業構造変化は、一時的なショックに止まるものではありません。

――いままでのやり方では対処できない、と。

柳川 ゆっくりとした人の入れ代わりではとても調整できません。これが、日本が直面している問題です。さきほど言ったように、スキルの陳腐化が激しく、先進国では、需要にマッチした能力が充分に供給されない企業、能力は高いけれどそれがもう必要とされない能力であるがために雇われない労働者が多いという状況になっています。人が足りないのに人は余っているという状態ですね。それが失業率の上昇、生産性のダウンの原因と言われていますが、とくに労働者から見た場合、この問題は深刻です。みんな社会に居場所を見つけて、働いて収入を得ていかなければなりません。では、どうしたらいいのか。どうしたらみんなが長く働けて、社会、経済全体がうまくまわっていくのか。そのためには、労働者も企業も、働き方、働かせ方を変えていく必要があるだろうというのが“40歳定年制”の提言の真意なんです。

第2回に続く


柳川範之
東京大学大学院経済学研究科教授
1963年生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。東京大学大学院経済学研究科博士課程修了。経済学博士。現在、東京大学大学院経済学研究科教授。
著書に『独学という道もある』(ちくまプリマー新書)、『法と企業行動の経済分析』(第50回日経・経済図書文化賞受賞、日本経済新聞出版社)、『元気と勇気が湧いてくる経済の考え方』(日本経済新聞出版社)、『日本成長戦略 40歳定年制』(さくら舎)などがある。